12人の怒れる男たち

  

 

 



演出にあたって


『12人の怒れる男たち』は実によく書かれた本である。
陪審員室という密室の中で、テーブルを囲んでの討論劇なので、
当然、場面転換はないし動きも限定され、目を楽しませてくれる要素の少ない、
しんどいドラマのように思えるのに、いざ舞台にのせてみると全く違うのに驚かされる。

それは一つには最初には十一対一で有罪が決定的と思われた事件が、
最後には十二対○で無罪になるというサスペンス風で緊密なドラマ構成にあるが、
もう一つには、一人一人のキャラクターが非常にはっきりしており、討論を進めて行く中で
一人一人の陪審員が否応なく裸の人間性をさらけ出してしまう点にある。
そして審議が終わって十二人の陪審員が部屋から出ていったとき、
私たちは予期しなかった大きな課題を投げ与えられてしまったことに気付く。

それは民主主義とは何か、あなたは真に民主的であるのか、という問題である。

作者のレジナルド・ローズという人は日本ではあまり知られていない。私も恥ずかしいが不勉強でほとんど知らない。
僅かに劇書房から出版された単行本(額田やえ子訳)の後書きで知るのみだ。
この単行本の前書き作者の言葉によると、作者はニューヨーク地方裁判所で故殺事件の陪審員をつとめ、
『公判の最後に私と他の陪審員が下さなければならぬ決断が、いかに最終的決定的なものであるか』
について強烈な印象を受け、しかも陪審員各自が、法廷に出された証拠への理解と記憶の差、
被告や他の陪審員に対する感情、個人生活の都合、職業や生い立ちからくる劣等感、気候・時間
居心地悪い室内などの物理的な問題等々にいかに左右され、公正な判断を失い勝ちになるかに驚き、
このドラマを書こうと思ったという。

このドラマの素晴らしさ、面白さはまさにその点にあるのである。
ところで陪審員たちは評決に際しては有罪或いは無罪の投票をするわけだが、
彼らが有罪或いは無罪を立証するわけではない。彼らは法廷に提出された証拠や証言に合理的な疑いがないかどうかを判断し、
ないと十二人全員が認めた時は有罪、あると全員が思った時は無罪という結論を出すのみなのだ。
従って仮に被告が真犯人だったとしても、法廷に出された証拠に合理的な疑いがあったときには無罪ということになる。
これは一見危険なようだが、無実の人が有罪とされたり死刑宣告を受けたりしている
冤罪事件が後をたたない日本の現状と照合するとき、
数段進んだ制度と言えるだろう。「疑わしきは罰せず」という人権思想をより堅実に制度化しているのであり、
より民主的と言えるのではあるまいか。

私は、民主主義とは個人の意志と自由を可能な限り認め尊重するものだと思っている。

互いに尊重するからこそルールが必要になるし、
義務の遂行と権利の保証が重要になっていく。それは与えられたからあるのではなく、
自らの意志で築くものなのだ。国はそういう個の意志の集約の上に形成されるべきものであり、
国が先にあってその中に個が埋没させられてはいけないのである。日本の憲法前文の重要さもここにある。

またこれは、すべての人間は人種・貧富の差・職業等に関係なく平等だという前提に立つ。
ここから基本的人権の確立という考えが出てくる。基本的人権の確立は、上から憐れんで下されるものでは決してないのだ。
民主主義を、多数決という形に矯小化・形骸化し勝ちな目本の現状を考えると、
この芝居は実に重要な問題提起をしているといえる。
さらにまたこの芝居は、話し合うことの重要さ、暴力によって他を支配しようとすることの誤りを痛切に感じさせてくれる。
この芝居(最初はTVドラマ)が、マッ力ーシー旋風直後に書かれているのは決して偶然ではないのではなかろうか。
マッカーシー旋風への鋭い批判と、健全な民主主義の持つ自浄作用と考えるのはうがち過ぎだろうか。

(いながき・あつし 演出家)